第77回 「沖縄本土復帰50周年と屋宜塾65周年」

「沖縄本土復帰50周年と屋宜塾65周年」

 

沖縄本土復帰の年、私は中学生でした。復帰のその日、「学力差は大きいが、これからは内地と競争しなければならない」と初代塾長(父)が言ったことを今でも鮮明に覚えています。

 復帰から数年後、沖縄から県外の難関校に進学する生徒が増え始め、屋宜塾からも鹿児島のラ・サール、愛媛の愛光、長崎の青雲などに合格者が出るようになりました。

 1980年代に入ると、琉球大学医学部が新設されますが、「果たして沖縄の高校生は何人合格できるのか」と心配する声が上がっていました。そんな中、私立の昭和薬科高をはじめ、県立の開邦・球陽高などの進学指導重点校が続々と設立されました。沖縄の受験への意識が大きく変化していく瞬間だったと思います。当時、塾は雨後の筍のように乱立し、できては消えを繰り返していました。屋宜塾においても、これまでの高校受験クラスに加えて、中学受験クラスを新設するなど、生き残るための大きな変革を余儀なくされました。

 1990年代には、沖縄からも難関大学の合格者が増え、県外難関校への進学者は激減していきました。そのため、屋宜塾でも長年秀才を輩出してきた県外高校向けクラスは、平成6年を最後に閉鎖となります。この最後の年の中学3年生は、若かりし頃の私にとって、大変思い出深く、授業をしていてワクワクするクラスでした。実際、ラ・サールなどにも進学し、その後、何人もの生徒が、東大、京大、九大、一橋大、国立大医学部などの超難関大学に進学を果たしてくれました。

 2000年代に入った頃、屋宜塾も一時経営難に陥ったことがありましたが、保護者の皆様に支えて頂き、何とか持ちこたえることができました。現在は、県外大手塾が多数進出し、第二の塾戦国時代となっております。しかしながら、ウチナーンチュの手でウチナーの学力向上に心血を注いだ初代塾長(父)の理念は、今なお私に受け継がれています。復帰50年、屋宜塾65年の節目の年に、平成6年の卒業生の子どもたちが屋宜塾に入塾してくれました。孫のような子どもたちを前に、「まだまだ、頑張らなくては!」とわが身を奮い立たせています。

 どうぞ、屋宜塾を末永く宜しくお願い致します。